由緒


 伊与久雷電神社は森に囲まれ、古墳の上に建てられた神社である。地域の人々の信仰の聖地でもあり、「雷電さま」と親しまれ、今日に至る。


 伝説によると御神木に雷が落ち、中から黄金像が現れ悪疫災難を払ったと伝えられている。その後、雷除けの信仰が高まり、老杉の樹皮は雷除けの護符とされた。

 鎌倉時代1215年(建保3)3月25日、三浦之介義澄が山城国加茂大明神より勧請したと伝えられている。鎌倉時代末期には新田左衛門佐義貞が鎌倉幕府討伐に際して社殿を修理し、戦勝祈願を行っている。その後、戦国時代には赤石城主により神領地を寄進され、江戸時代から明治に至るまでは伊勢崎藩により修繕などが行われてきている。


 この地域では農業や養蚕、学問や武道なども盛んであった。当時の御開帳の賑わいやさまざまな額が多く奉納されていることから、本社への信仰と高い文化を持った地域性が伺える。

 明治には村社に格付けられ、その後郷社に昇格した。このことは代々地域の支配者による庇護と、村民たちの崇拝が成し遂げたことにほかならない。


由緒


 当社は順徳天皇の健保六年(1215)3月25日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。

 上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。

 後醍醐天皇の元弘三年(1333)3月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。

 正親町天皇の永禄3年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。

 明正天皇の寛永14年(1637)、伊勢崎城河内守忠行は社殿を修復し祭米を奉り、霊元天皇の延方9年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。

 また後桜町天皇の明和4年(1767)にいたり、酒井駿河守騨忠温が社殿を修復して祈雨の祭典を行った。

 このように江戸時代にあっては領主酒井家の祟敬とくに驚く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊祟するところとなり、明治4年には村社に列せられ、同40年には境内緒末社を合祀して今日に至る。


雷除け信仰


 天正元年正月25日午の刻(正午)、雷鳴の激しく天地も揺らぐかと思う折から、境内の神木に落雷があった。

 その破裂した神木の中央から一条の光を発していたので、村民がひどく狼狽恐怖し、村の修験者須田峯ノ坊がこれを窺うと一寸八分余の黄金像が現れた。

 この像は、地頭五十九弾性の守り組として祭られ、神徳弘く悪疫災難を救済し、殊に雷鳴を恐怖する者がこの神を信じれば恐怖の念がなくなるといわれた。

 また、これ以来は境内の老杉の樹皮をはぎ取り、雷除けの護符とする風が生じたという。

 この信仰に関して、夕立余計なの信仰に基づいた太々講という講組織が現在もある。

 果たしていつごろから始まったかは定かでは無いが、遠くは埼玉県朝霞市や群馬県利根郡にも講員がおり、各地で三人講・五人講と称し、3月25日の例大祭の日には今でも多数の講員が参詣する。

 当日は専用の受付が設けられ、記名を済ませた順に御神札や御守を受けていかれる。

 この講とは別に、時世を反映してか、10年程前から電力関係者やゴルフ場関係の人々が参拝し、雷除けの祈願を受けていかれるようになった。

祭神と末社

御神像

 風神 雷神


主祭神

 大雷命 (オオノイカヅチノミコト)


神社・末社

 衣笠神社 : 保食命

 菅原神社 : 菅原道真公

 八幡神社 : 誉田別命

 秋葉神社 : 火産霊命

 熊野神社 : 最上神

 菅原社  : 菅原道真公

配祠神

 高於加実命 健御名方命 

 菅原道真命 火産霊 保食命

 倉稲魂命 誉田別命 天照大神

 櫛御気命 岡像女命 大物主命

 素裟鳴命 日本武命 最上神命


配祠社

 八坂神社




上野国神社明細帳より